伊豫豆比古命神社について
由緒と沿革
御祭神 【正式名称】
 伊豫豆比古命神社は、御鎮座(御創建)二千余年の古くより、尊称・敬称も親しく「椿神社」「お椿さん」とも慕われ、縁起開運・商売繁昌の神様として、四国四県はもとより、広く全国から崇敬を寄せられている神社です。

【通称号】
 「椿神社」「お椿さん」は、松山市内・四国四県で特に敬称を込めて呼ばれていますが、この由来は、『往古、伊豫豆比古命・伊豫豆比売命の二柱の神様が舟山(境内図参照)に御舟を寄させ給い、潮鳴栲綱翁神(しおなるたぐつなのおきなのかみ)が纜(ともづな)を繋いでお迎えした。』との伝説が示すように、神社周辺は一面の海原でありました。『津(海の意)の脇の神社、すなわち「つわき神社」が時間の経過と共に「つばき神社」と訛った。』との学説の一方、民間伝承では、現在も境内一帯に藪椿を主に、各種の椿が自生していますが、「椿の神社」つまり「椿神社」と呼ばれるとの説話があります。
 大政奉還が行なわれて幕政が閉じられ、廃藩置県の実施を見て明治を迎えましたとき、伊予の国8藩も例外に漏れず、現在の愛媛県が誕生しました。県名策定に際し、古事記・日本書紀にも記されている、当神社の御祭神の一柱、愛比売命から県名とされましたが、都道府県名に御神名を冠されたのは、愛媛県のみのようです。

 伊豫豆比古命神社(通称「椿神社」)は、悠久の歴史に恵まれていますが、「変えなければいけないこと」「変えてはならぬこと」のけじめを大切にしています。
 「変えなければいけないこと」は、御参拝をいただく皆様への利便性や、御参拝時の環境づくり、と思いを馳せて、平成の境内整備事業に見られるとおり、参拝者用トイレの改築・駐車場の整備工事・スロープ新設・祈祷者控室の新設等、どなたでも椿神社の御神前に、より清らかに、より親しく、苦もなく御自由に御参拝が叶うように。との思いを致した工事でありましたが、今後も配慮を重ねます。
 「変えてはならぬこと」は、御祭神(椿神社の大神様)をお和め申し上げる「お祭りごと」と「文化・歴史・緑の森の保全」に尽きることと考えます。椿神社には、御創建以来継承されている代表的な「椿まつり」は、今日まで連綿として続いていますが、祈りとしてのお祭りそのものは、厳然として変化はなく、勿論、神様への至誠や作法には寸分も狂いなく、今後におきましても「祭祀の厳修」は引き継がれなければなりません。
 松山は文学の町・俳句の都として、全国に発信し、皆様から称賛されています。俳都松山に御鎮座の椿神社は、現在540基の句碑玉垣(句碑玉垣の項参照)が設置されましたが、完成時には722基の句碑が整います。自作句・有名俳人句を中心に、素晴らしい文言の奉納を頂いておりますことも「文化・歴史」の証として、将来に伝承したいものの一つでもあります。
 「緑の森の保全」は、自然環境に異変が続く今日、異常渇水や酸性雨等に代表されるように、世界的規模で森林破壊が進んでいます。
 神社の杜は、「神奈備(かんなび)」「神寂び(かみさび)」の森とも称され、遠い御祖(みおや 先祖の意)達から敬われて現在まで、神社信仰の尊い礎(いしずえ)として崇められてきました。神社の杜、つまり境内の樹木の一木・一木が神様の息吹を享けて、何百年・何千年もの間、呼吸を続けて根を肥やし、御神木として神社の歴史と由緒を無言で語っています。
 神社の鳥居をくぐり、参道に歩を進めるとき、これらの樹々が安堵感や清浄感、時として心安らぐ感銘に触れることがありますが、神社が日本人の心のふるさと、と形容されるところです。鎮守の森を守り続けることも神社の大切な使命であり、境内の樹木の保護・保全の一環として育苗・植樹にも不断の努力を続けています。